理不尽に立ち向かうための理不尽?
そもそも母校の理不尽な体育が何を想定して課されているのか、きちんと説明を受けた記憶はありません(それゆえの理不尽かもしれません)。
社会の理不尽さに耐えるための予行演習であれば、それが不適切であることはこれまで述べてきた通りです。
ただし、一つだけプラスの解釈もできます。
それは、
「どうしても避けようのない理不尽があるということを知った上で、それに立ち向かう力をつけさせるために、厳しい体育という作為的な理不尽を課している」
という解釈です。
避けられない理不尽のうち、自他の努力によってどうにもならない究極のものは、それぞれがもって生まれた能力です。
実際、個人の能力は遺伝の影響を少なからず受けているといわれています。
同じ努力をしたとしても、報われる人もいれば報われない人もいるでしょう。
生徒がもって生まれた運動能力と向き合うことになるきっかけが、母校の体育で課されるノルマです。
運動が苦手な人は挫折感を味わいますが、それぞれがノルマの達成を目指して努力します。
そう考えてみると、そうした頑張りは理不尽に耐える営みではありません。
もって生まれた能力の限界という避けられない理不尽を受け止めつつ、挫折に負けずに努力を続け、それを克服しようとする前向きな意味が生まれるのです。
もちろん、この解釈にも穴がないわけではありません。
自分が苦手なことをわざわざ頑張る必要はなく、得意な分野で力を発揮すればいいという考え方もできるからです。
また、能力差があるにもかかわらず一律の成果を求めることの是非についても議論の余地があるでしょう。
しかし現時点では、母校の体育に関してこれが私が思いつく最もポジティブな解釈です。
実際、母校の体育は全く意味のないものだったとも言い切れず、それによって身についたものもあったと私は思っています。
礼儀作法や、難しいことをやり遂げたという達成感、自分の体力への自信などです。
ただし、それらを育むために怒声が必要だったとは全く思いませんが。
母校の「理不尽」を捉え直す
母校の理不尽は実は体育に限ったことではなく、忙しいスケジュールや重い課題、難しい試験など、学校のあり方全体が「理不尽」と称されていました。
これらは大学進学を目指す学校では多かれ少なかれ当てはまることかもしれませんし、そうした学校に比べて母校が特に過重で無意味な負担を生徒に課していたとは思いません。
これらの中には、自分の能力を伸ばし、経験を豊かにする上でプラスに働いたものもあります。
必ずしもそれらすべてが理不尽だったわけではないのです。
母校の問題は、大きく2つあると思います。
まずは、必ずしも理不尽ではないようなハードルも含めて、その全てを学校側が「理不尽」と呼び、それを疑ったり修正しようとしたりするのではなく、受け入れて乗り越えることを全面的に肯定していたことです。
こうしたメッセージを発信することは、理不尽に疑問をもたず、闘うことも逃げることもしないあり方を肯定することになりかねません。
教育的に意義のあるハードルなら、「理不尽な」という形容詞を学校が使うべきではなかったと思います。
また、体育のノルマのように作為的な理不尽を課す場合は、それが想定する実社会の避けられない理不尽が何なのかということをきちんと理念化しておくべきだと思います。
たとえば、自分の能力という理不尽と向き合い挫折を乗り越えるというプラスの意味を生徒にちゃんと共有できていたなら、社会の理不尽な決まりに忍従するといった誤った教訓を与えずにすみます。
そして、二つ目の問題は、体育における罵倒をはじめとして、乗り越えるべきハードルというにはあまりに無意味な負担を母校が一部で課していたことです。
そうした負担が、「理不尽」という名の下、他の必ずしも理不尽ではないハードルと同じく耐えて乗り越えるべきものとして生徒に認識されていたことも問題でした。
これらの「本当の理不尽」を一掃し、「必ずしも理不尽とはいえない理不尽」を理不尽と呼んで肯定するのをやめ、「あえて課された理不尽」の目的をきちんと説明できたなら、母校の教育方針はもっとよくなるだろうと思うのです。
さて、ここまで私の母校について書いてきましたが、みなさんの経験に当てはまるものはありましたか?
教育における理不尽について考える助けとなるような視点を、この記事が提供できていたなら幸いです。
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