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あえて理不尽を課す教育は適切か?現代に残る”昭和的”な教育から考えてみた

避けられる理不尽を課す必要はない

教育と理不尽について考え始めたときに目に止まったのは、吹奏楽指導者の方によるこのブログの「世の中には避けられる理不尽避けられない理不尽がある」という考え方でした。

避けられない理不尽とは、もって生まれた能力や家庭環境の違いなど、自分の努力では変えられない理不尽です。

一方、避けられる理不尽とは、意図的に課された理不尽のことです。母校の厳しい体育はこれにあたるでしょう。

この方の意見は、避けられない理不尽は受け止めるべきものだが、作為的な理不尽は不必要であり、そのような理不尽への耐性をつけるより、むしろそんな理不尽な状況を変えていく人間を育てることが重要だというものでした。

納得できる意見です。

これに従えば、作為的な理不尽に耐えさせる母校の体育は無意味なものということになります。

この方の意見に付け加えるなら、避けられない理不尽の中にも、いくらかは周囲のはたらきかけで防げるものがあったと思うのです。

貧しい家庭に生まれた、病気になった、災害や事故に巻き込まれたといった理不尽は当人には避けようのないことですが、不平等が生じにくい社会構造をつくる、病気の治療や予防の方法を開発する、災害や事故の原因を調べて再発防止に活かすといった努力で、(簡単なことではありませんが)同じ理不尽を味わう人が出ないようにわずかでも改善していくことはできるはずです。

それならばなおさら、与えられた理不尽に耐えるよりも、理不尽を改善する人を育てる方が意義がありそうです。

逃げる・立ち向かう力を奪う理不尽

そもそも、理不尽を課すことによって、耐える力は身につくのでしょうか。

そうではないというのが心理士経験者の方によるこのブログの意見です。

他に選択肢がない状態で理不尽を強要されると、人は「何をしても無駄だ」という学習性無力感に陥り、逃げることも立ち向かうこともできなくなります。

これを示した、動物を使った実験の例としては、ゾウを小さいうちから杭につないで移動できない状態にしておくと、どれだけ動こうとしても動けないことを刷り込まれてしまい、成長して杭を動かせるだけの力がついても逃げ出そうとしなくなるそうです。

これは忍耐ではなく、諦めです。

さらに、理不尽を強要されることによるストレスは、忍耐力を司る大脳の前頭前野の機能を損なうといいます。

よって、理不尽の強要では自分をコントロールする忍耐力は身につきません。

ブログによると、学習性無力感を防ぐためには、他に選択肢が用意されていること、言い換えれば、自分の選択によって状況を改善できると思えることが必要だとのことでした。

では、母校の例ではどうでしょうか。

理不尽を改善できる選択肢はあったでしょうか。

そもそもそのような理不尽を掲げる学校を選ばないというのは一つの選択肢です。

母校の厳しい体育は地元では知られていたので、それを避けて他の学校を選ぶという人はいました。

しかし、体育だけが学校のすべてではありません。

母校の場合、進学実績がいいという強みがありました。

そのため、母校の多くの生徒にとっては、積極的に理不尽な体育に耐える道を選んだというより、自分の進路を広げるために母校を選び、そこに体育がついてきたという方が正しいでしょう。

母校を避ける選択肢はあってなかったようなものです。

さらに、一度入学してしまえば体育は避けようがありません。

休んでも補講が課されます。

厳しい体育と叱責、そしてそれを避けようがないことはストレス源にもなりうるでしょう。

脳の機能低下が起こるほどかどうかはわかりませんが、私も体育教師と接するときにはいつも緊張していました。

とすると、避けようのない体育によって培われていたのは、実は強さや忍耐力ではなく諦めだったことになります。

また、前述のブログによれば、生存バイアスというものによって、理不尽を生き残った人はそこから脱落した人の存在を忘れ、理不尽を正当化しがちになるそうです。

社会で理不尽に見舞われたとき、始めから諦めてしまってそこから逃げることもそれに立ち向かうこともできないとすれば、あまつさえその状況を正当化してしまうとすれば、それは自分を傷つけるとともに、誰かが傷つく構造を再生産することになります。

それならば、理不尽を受け入れ、それを乗り越えよという母校の体育は、あまり良いメッセージを生徒に与えていないように思います。

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