社会に生きる人間を育てる根本となる学校教育において、生徒が意見を言えるような制度的な環境をつくるだけではなく、先生が生徒に対し意見を言うことをゆるすこと。少なくともデータ上では、生徒が学校側に意見を聞いてもらいたいと感じていることは明らかです。実際に先生が生徒に意見をゆるしたとしても、生徒側が話し合いを拒んだり、消極的なままであったりすることもあるかもしれません。しかしそれでも少しずつ、工夫しながら生徒に対しアプローチを続けるしかないのだと僕は考えています。
未来の学校や生徒のためだけではなく、未来の先生や家庭、社会のためにも。
補足
ここまでの議論は「たたかい」の前の「ゆるし」について述べました。たたかうべき問題は「たたかい」の前の「ゆるし」にすでに存在していると僕は感じています。
しかし、「たたかい」の後の「ゆるし」について説明する機会がなかったのでここで説明します。
生徒が自分の意見を学校で言う「たたかい」のプロセスは必ずしも平和ではないと思います。もちろん非暴力手段である言語を用いますが、それでも生徒と先生との衝突はある程度は免れないものです。衝突の後、もし生徒と先生の間の対立感情がいっこうに消えなければ、このさき生徒が正当に意見を言う環境は壊れていってしまいます。「たたかい」の後にも再び両者が正当な「たたかい」をできるような場所を維持するために必要なこと。それは「ゆるし」です。
まず、自分から他者への「ゆるし」を考えます。それは生徒と先生の両者がそれぞれたたかった相手をゆるすことです。具体的には現状の改善のためにたたかった相手に理解を示すことです。
正当な「たたかい」は生徒と先生が対立しているように見えて、実際には両者とも「現状を改善する」という目的を根本に抱えており、仲間でもあります。たたかった後にはそれがどれだけ激しいものであったとしても、正当な「たたかい」である以上、たたかった相手に対し恨みを抱くことは間違っているでしょう。たたかった相手をゆるすことで今後の「たたかい」の場を維持する必要があります。
次に、自分から自分自身への「ゆるし」を考えます。これは特に立場上現在不利である生徒に当てはまることだと思います。たたかった後に望むような成果が得られなかった場合、ある生徒は成功できなかった自分を恨んでしまうかもしれません。しかし、生徒も自分自身をゆるすことが必要です。
そもそも「たたかい」という行為自体、とても勇気を必要とすることだし、周りを巻き込んでたたかっていけば、周りの生徒にもたたかう勇気が芽生えます。
正当な手段でたたかうことは賞賛されるべきことなのです。そして、「たたかい」に失敗した生徒が自分自身をゆるせなくなってしまうことにも外的要因は存在しえます。それまでの教育で育まれた自己肯定感が低ければ自分を責めてしまうことは大いに考えられるし、もし「たたかい」に失敗した生徒を先生や他の生徒が責めてしまったら、その生徒はたたかったことを後悔し、今後たたかうことに対して抵抗を覚えるようになってしまうでしょう。ここでも必要なのは、同じくたたかった者としての先生からの理解であり、先生から生徒へ手を差し伸べることです。ひとつの「たたかい」は「ゆるし」によって始まり「ゆるし」によって終わり、「たたかい」の後の「ゆるし」は、また次の「たたかい」の場を維持する役目を負うのです。
(1)情報・知識&オピニオン imidas 『「子どもの権利条約」と日本の学校〜「物言う子ども」を育てるために(後編)』2ページより
https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-225-21-09-g858/3
(2)心理カウンセラーの種 『自己肯定感が低い原因7つ』より